本稿は私見が含まれた記事です。
心身の状態、技術の完成度、天候。
スポーツのパフォーマンスは、様々な要因の影響を受けます。
特にトップ選手のパフォーマンスは再現が難しいため「事例研究」という形で後世に残ることがあります。
今回は陸上競技における事例研究の話題です。
概要
スポーツに関する多くの研究は、統計学的研究と事例研究(ケーススタディ)に分けられます。
前者は郡内あるいは群間の傾向を抽出するためのものですが、トップ選手はそもそも集団の外れ値に属する人たちです。
絶対数も少ないため、選手個々人の取り組みは後者の形をとることがあります。
研究の内容
事例研究の場合、論文の著者はトップ選手自身になることがあります。
今回は女子200mの元日本記録保持者の信岡 沙希重 氏の研究「一人の女子短距離トップ選手のオリンピックに向けた5年間の取り組みの分析-トレーニング課題の実施・達成状況から-」のご紹介です。
対象
信岡 氏本人が対象です。
信岡 氏は200mの名手として活躍し、日本選手権も5連覇しています。
2004年に200mで23秒33の日本記録を樹立。これは現在でも福島 選手、高橋 選手に次ぐ日本歴代3位の記録です。
研究内容
トレーニング日誌をもとに、2004〜2008年までの5年間の記録からトレーニング課題と試合結果の関係を探ることを目的としています。
統計的な研究ではないため客観的な表現というより「ありのまま」の情報が記述されており、走りの感覚や体重管理、怪我の痛み、生理周期の調整といったセンシティブな事項についても言及があります。
結果
結果から述べますと、信岡 氏は2007年の世界選手権に出場したものの2008年オリンピックには出場できませんでした。
ですが、いち選手のトレーニング目的や意図、主観的なフィードバックや試合の時の感情が随所に記載された研究は、イチ事例として大変貴重なものがあります。
特に体重管理や怪我には度々悩まされていたようで、たびたび情緒的な記述が見られます。
体重管理の一環で食事を記録する手法をとった時の記述は下記のとおり。
しかし記録していくことで食事に対する意識がより強いものへと変わった.
食べ過ぎた時に直後に反省するのは簡単だが,罪悪感を含めてその反省を忘れていくのが人間である.
しかし記録をするとなると記入するときに再び食べ過ぎたことを後悔する.つまり一度の食事で 2 度反省することになる.
このことを実感した対象者は反省を避けたいという気持ちが自然と芽生え,「まぁいいか」といった類の気持ちが明らかに少なくなった.
後で反省することより食事を抑える我慢を選ぶようになり,さらにその我慢は苦痛ではなく心地いい気持ちへと変わっていった.
200m前日の試合で思うような結果が残せなかった時のことについても、ありのままを記述しています。
前日の自己記録に 0.01 秒足りないものの記録としては対象者にとって悪くはなかった.しかし5位という順位に大きなショックと悔しさが残った.
振り返っても今までで一番悔しいレースはこの100m決勝である.次の日の200mなど考えられない夜を過ごした.200mに意味を持てな いほど引きずっていた.
しかし仲間や家族から対象者にとって200mの大切さを思い出させるようなメールが何通も届いた.
200m寄りの選手であったためかスタートに関しては常々悩んでいたようですが、2006年の遠征ではこんなお茶目な記述もあります。
フライングも覚悟して臨んだ100m のレースは,本当にフライングしたのではないかと感じるほど飛び出した.
常に誰かの後ろから始まる100mのレースだったので,誰も見えないことでフライングと思ってしまったのだと思う.
そのため「やっちゃった」という気持ちが過ったが「いっちゃえ」と思い緩めることはしなかった.
少し過ぎてフライングを取られなかったことを内心「ラッキー」と思っていた.
2007年に23秒12をマークしたものの、追い風参考記録に終わってしまった際もこの通り。
世界陸上参加標準記録はA標準が23秒10でB標準が23秒30でB標準突破と安堵したが,無常にも追い風2.8mと参考記録に終わってしまった.
スタート前後に風を感じることがなく参考記録になるとは思っていなかっただけに,ショックというより受け入れられないような気持ちが残った.
特に女子200mは世界選手権に出場するにも大変な苦労があっただけに、このような一喜一憂があったのでしょう。
まとめ
この後信岡 氏は4年間競技を継続し、2012年に引退しています。
キャリア晩年は膝やアキレス腱の痛みがあったようですが、論文の中でも後半は思考が洗練されシンプルになってきたことがわかります。
長年競技を続けてきた中で,結局「当たり前のことを当たり前に」というシンプルさが一番重要であると感じる.
走りの見方についても同様で,スタートからレー スの流れを作ること,最大速度を獲得するというごく当たり前のことを対象者に不足している点からアプローチしていくのみである.
これらの要素が高い精度で重なった時,目標記録に到達できると考えている.
これだけ主観的な情報を含んだ論文も珍しいのですが、読み物としても一読の価値があります。
お時間のある方はぜひ原文もご一読ください。
今回はここまで。