どうも、森です。
今回は少しセンシティブな話題です。
先日、キャスター・セメンヤ選手が南アフリカの女子サッカークラブに加入したニュースが報じられました。
セメンヤ選手は陸上競技の中距離選手として、2009年の世界選手権優勝をはじめ2012年ロンドン、2016年リオ五輪800mを連覇した実績があります。
性別疑惑が持ち上がったことで有名な選手ですが、2009年の世界選手権優勝後の検査では子宮と卵巣が無く体内に精巣があり、通常の女性の3倍以上のテストステロン(男性ホルモンの一種)を分泌していることが判明しました。
その後も世界大会を勝ちまくりながら国際陸上競技連盟(IAAF)とすったもんだしていましたが、IAAFが2018年4月に新規定の導入を発表。
その内容が「テストステロン値が高い女子選手は400〜1600mを走る上で不公平なアドバンテージがあるとされており、この値を投薬治療により通常レベルにまで下げることができれば対象選手の出場を認める」という、明らかにセメンヤ選手を意識したもの。
セメンヤ選手と南アフリカ陸連は2018年6月にスポーツ仲裁裁判所に訴えましたが、今年の5月に「テストステロン値が高い女性の出場資格を制限する」というIAAFの新規定が容認され、訴えが棄却されていました。
今回の報道の限りでは、セメンヤ選手がテストステロン値を下げる薬を服用し、陸上競技にカムバックすることはもう無さそうです。
こういった問題は何も先天性の疾患を持つ選手だけでなく、性転換を行なったトランスジェンダー選手の周りにも起こっています。
例えばオーストラリアの女子ハンドボール代表のハンナ・マウンシー選手は男子としての代表実績もありますが、2015年に性転換。
女子代表として2度代表に選出されています。
Hannah Mouncey não nasceu mulher, mas se tornou mulher. E para evitar problemas, é melhor que as mulheres que nasceram mulheres fiquem caladinhas. Mas nem todas se calam, não é, @AnaPaulaVolei? pic.twitter.com/JzGiAK6j85
— Wesley Miranda Alves (@wesleymir) February 14, 2019
189cm99kgというジョセフ・ジョースターのような体格ですが、あまりのサイズ差に「これはフェアなのか」という議論が起こりました。
もちろん「社会的な正しさ」という観点からいえば、こうした選手がスポーツに参画する権利は保証されるべきです。
体育・身体活動・スポーツに関する国際憲章でも次のような記述があります。
第1条-体育・身体活動・スポーツの実践は、すべての人の基本的権利である
1.1 すべての人は、人種、ジェンダー、性的指向、言語、宗教、政治的又はその他の意見、国民もしくは社会的出身、財産、その他一切の理由に基づく差別を受けることなく、体育・身体活動・スポーツを行う基本的な権利を持っている。
1.2 これらの活動を通じた身体的、精神的、社会的な充足と能力を発達させる自由は、政府、スポーツ、教育に関わるすべての機関により支援されなければならない。
全ての人にはスポーツに参加する権利があるということです。
もちろん、レクリエーションや健康増進を目的としたスポーツであれば性自認がどうこうという点はあまり問題にはなりません。
問題は、この思想が競技スポーツにも適用されうるということ。
1.6 すべての個人は、体育・身体活動・スポーツを通じて各人の能力と興味に応じて一定の達成を得る機会を持たなければならない。
それ相応の能力を持つ者は「一定の達成を得る機会」、例えばチャンピオンシップを決める大会やオリンピックの選考会に出る権利があるということです。
一方で「スポーツ的公平性」という観点ではどうでしょうか。
競技に参加する当事者からは、こういった事例に「アンフェア」という声が出てきているのも事実。競技者としては生活がかかっているわけですからシビアな問題です。
今はまだ少数ですが、今後はこのようなケースが増加していくと考えられます。
ですから、本来であればセメンヤ選手の例などはもっと掘り下げられるべきでした。
ただ、渦中の選手の立場からすれば、こういった問題と本格的に向き合うとなれば競技に専念できる環境ではなくなるという問題があります。
アスリートのピークは短いものですから、やはり現役の間に当事者がこういった問題に取り組むのは現実的に難しいでしょう。
将来的に競技スポーツがどのような方向に行くかは未知数ですが、商業主義と競技スポーツが結びついている以上、どこかで「スポーツ的公平性」と「社会的な正しさ」を切り離して考えるときが来るかも知れません。
「社会的な正しさ」から切り離されたスポーツってどうなの?とも思いますが。
今回はここまで。