どうも、森です。
久々の「日頃考えていること」シリーズです。
有名人の発言が大々的に取り上げられたとき、良い内容であっても必ず「それって◯◯したくてもできない人のことを考えていませんね?最低です!」のような旨のコメントを見かけることはありませんか。
少なくとも10年ほど前、SNSというものがまだ熟していなかった時期にはあまり見られなかった現象だと思います。
ですから、この傾向は情報の流動性が今後高まるにつれ、より顕著になってくると思われます。不用意な発言が許されない、何となく生きづらい社会になってきたとこぼす人もいます。
私もこういった流れを見るに「最大多数の最大幸福」の限界がいよいよ近いのではないか、と感じています。
「最大多数の最大幸福」とは、イギリスの哲学者ジェレミ・ベンサムが論じたもので「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」というものです。
近現代における集団生活を営む上では正しい考えのように思えますが「最大多数」ということは、そこから外れた「少数」が発生します。
どのくらいの割合かはケースによるでしょうが、いかに物事が「最大化」されても、少なくとも5%程度は「少数」が発生すると考えています。
あたかも統計の95%範囲から弾かれた「外れ値」のような「少数」ですが、20〜30の物事の区切りがあったとすると、いかに尋常な人間であれ何らかの「少数」に属することになります。
現代はこの「少数」に属する人々も、容易に情報を発信できるようになりました。
今までスポットの当たらなかった貧困や理不尽な差別の実態が浮き彫りになった一方、ノイジーマイノリティと呼ばれる人々が幅を利かせるようにもなりました。
「全ての人々と完全には折り合いをつけられない」という現実があったとして、人々はどのように集団を形成していくのか。
ズバリ「より近しい性質や思想を持った少数の集団」に分かれていくのではないでしょうか。若者は既にこういった傾向が強いように感じます。
シェアハウスやオンラインサロンの隆盛、若者の起業でも「居場所作りがしたい」といったワードを見かけます。子ども食堂も「居場所」作りの一環ですね。
現代では職場や学校といった集団より、もっとコンパクトな居場所が求められる傾向にあるような気がしています。
現実社会でもネット内でも、今後は「コミューン(小規模な共同社会)」のような集団が形成されていくのではないでしょうか。
▲コミューン論といえばこの本
「コミューン」といえば印象に残っているのが真木 悠介 氏の「気流の鳴る音」です。
大まかな流れとしては、人類学者カスタネダが見聞きしたメキシコ北部のヤキ族の老人ドンファンの教えをまとめたものなのですが、日本の「幸福会ヤマギシ会」や「紫陽花邑(あじさいむら)」といった共同体にも言及しています。
書中ではコミューンの構想について「ニギリメシ」「モチ」「紫陽花」に例えて紹介しています。
ニギリメシでは、一粒一粒の米粒は独立したままで集合しているにすぎないのに対し、モチでは米粒そのものが融解して一体のものとなっている。他のさまざまな「共同体」では、ニギリメシの如く、「我執(エゴ)」をもったまま個人が連合しているだけなので相剋や矛盾を含むが、研鑽をとおしてエゴそのものを抜いている山岸会においては、モチの如くに矛盾もなく相克もない「一体社会」を実現するという趣旨である。
他方「紫陽花邑」という命名の趣旨は、あたかも紫陽花がその花の一つ一つを花開かせることをとおして、その彩りの変化のうちに花房としても美をみせるように、邑に住む者ひとりひとりが、それぞれの人となりに従って花開くことをとおして、おのずから集合としてのかがやきをも発揮しようとするものである。
「気流の鳴る音」P23より引用
上記の部分は比較的わかりやすい部分ですが、全体的に難解な表現が多いです。
さて、現代のコミューンは今後どうなっていくのでしょうか。もう一度読み返しながら考えてみたいと思います。