どうも、森です。
今回はほんの少し、心身についての話題です。
古代における心と身体のあり方
「心と身体」という話題は、それこそ先史時代からの人々の関心ごとでした。
哲学の祖・ソクラテスが説いていた「善い生き方」とは即ち魂(プシュケー)のことです。
ソクラテスは(あるいはプラトンが自著で描くソクラテスは)、プシュケーを知と徳の座だとした。< よく生きる >ことを《プシュケーの気遣い》として説いた。
プシュケーの世話をせよ、と説いたのである。
wikipedia より引用
また、現存する彫刻を見てもソクラテスは堅強な肉体を持っています。鍛錬場で筋力トレーニングもしていたそうです。こういった活動がマイルドで実用的になってくると、このあたりは先日の雑記で触れた逍遙学(しょうようがく)に通じてくるのでしょうか。
とにかく古代の価値観では、心身が合一であったことが伺えます。しかし、現代ではこの「心身が一体」であることが忘れられがちではないでしょうか。
二元論的な考え方
心身を分離した思想を「心身二元論」といいます。こういった思想はずっと以前にあったようですが、体系化した人物としては近代哲学の父、ルネ・デカルトが有名です。
全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。
「自分は本当に存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。
―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。コギト命題といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。
wikipedia より引用
「方法的懐疑」などについて書いていくと、それだけで1記事では済まなくなってしまいますので省略します。
「今までの思想のゴチャゴチャした部分は一旦棚上げしようぜ!」という、いかにも数学者らしい明瞭な思想のもと、この心身二元論は確立されました。余計なものを取っ払って考えたとき、今まさに「思索する」この部分が「私」であると。
現代ナイズされた二元論
この人体を、神の手によって作られ、人間が発明できるどんな機械よりも比類なく整えられ、みごとな運動を自らなしうる一つの機械とみなすであろう。
上記はデカルトの「方法序説」内の一部です。身体を機械に喩えています。ただ、後年の「省察」では下記のようにも書かれています。
飢え、渇き、痛み、等々の感覚は精神が身体と合一し、いわば混合していることから起こるところの、ある混乱した意識様態にほかならない。
「省察」は名前の通り、今までの主張の補足的意味合いがあります。デカルトは心身の二元論を主張してはいたものの、心身を完全に分けて考えることは実際には不可能であることを認めています。
とはいえ、後世への影響としてはインパクトのあった「方法序説」内の二元論でしょう。考えるに、古来からの価値観と歪んだ形でこれが合わさってしまったのではないかと思っています。
- 心身は分離して考えられる
- 心(魂)の方がより高尚である
こういった考え方です。心の問題は心、身体の問題は身体…というのが現代ナイズされた二元論といえましょう。
心身の相互関係
前述の「省察」でも触れられているとおり、心身には相互関係があります(心身一元論)。
精神的ストレスからくる疾患などはその代表例です。一元論的な見方でいえば、精神疾患は「心身の変異」です。単に「心の問題」とくくるのは二元論的思想です。
また、怪我をしてしまった時に心が落ち込むのも、まさに心身が相互に影響していることの証左といえましょう。
なんとなく、現代的価値観でいいますと「心」の優位性があるように思えます。しかし、一元論的な考えのもとではそのようなことはありません。心身はまさしく一体で、相互関係があるといえましょう。
まとめ
ゴチャゴチャと書いてしまいましたが、ざっくりまとめてみます。
- 心身は完全に分離できない
- 心身には上下関係はない
- 心身には相互関係がある
ですから、心が落ち込んだときはライフハック系の本を読んで「何となく」やる気になるより、ガッツリ運動して温泉にでも行った方が良いかもしれませんね。
体力を一旦カラッポにすると、心の淀んだ部分もずいぶん良くなります。パワーマックスなんかは無心になれていいですよ…笑。
今回はここまで。