向かい風参考記録

北国在住。陸上競技、その他 いろいろ。

陸上競技、その他 いろいろ。

いきなり「超人」になろうとうする人と、それを煽る人々に思うこと

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【caution!】

本稿は私見が入った記事です。

また特定の個人・団体を貶める意図はありません。

どうも、森です。

更新間隔が空いてしまい、申し訳ありません…。

今回はオピニオン記事的な更新になります。とりとめのない内容になります。

「自由に生きる」ということ 

ブログを始めた前後あたりから、最近のネット界隈の風潮みたいなものにモヤモヤ感がりました。

ちょっと一言では表現し切れなかったので敢えて書き起こしたりはしていませんでしたが、先日、心理セラピストの田中 真理子 氏のツイートを見て妙にストンとつかえが取れましたのでご紹介させていただきます。

そうそう、そうなんですよね。

以前書いた記事でもチョロっと書きましたが、やっぱり影響力のある人には相応の責任が生じると思うんです。安易に「会社に縛られるのはクソ!自分軸で生きるには邪魔なのですぐに辞めろ!」と煽るのもいかがなものかと。

 

例えば、毎年春になると「新卒で入った会社を1週間で辞めてやりました!ドヤ!」みたいなエントリーがちょっとバズりますよね。確かに、よほど酷い職場であれば第二第三の被害者が出ないようにという側面からも記事化する意義もあるでしょう。

しかし、こうした記事の中には「これを足がかりにしてセルフブランディングしよう、有名になってやろう」という魂胆が見え隠れするものもあります。

 

もちろん、職業選択の自由というものがありますから、新卒で入った所を初日で辞めようが何だろうがは法に触れるものではありません。

一方で「人を採用する」という一連の流れには、相応の労力が払われています。

「勤める気もない奴を採用した会社も悪い」という指摘もごもっともです。でも、この手の話を見るたび、何だかなぁ…という気持ちになってしまいます。

いきなり「自由」になることの無謀さ

多くの実績を残した人、現代でいえば「インフルエンサー」の多くは言わずもがな、有名大学出身者や一流企業の経験者です。

個人的に、彼らの発信する情報で「危ないな…」と思うのは、過程をスッ飛ばすことを推奨した発言。

 

f:id:Wetland:20181028180944p:plain有名大学を出て、有名会社で5年働いた後フリーランスになりました

f:id:Wetland:20181209142346j:plainふむふむ、凄い経歴だな…

f:id:Wetland:20181028180944p:plainですが、大学で学んだ知識は社会に出て使った記憶がありません

f:id:Wetland:20181209142346j:plain大学卒あるあるだなぁ

f:id:Wetland:20181028180944p:plainなので大学を出る意味はありません

f:id:Wetland:20181209142346j:plainファッ!?

f:id:Wetland:20181028180944p:plain会社での経験も意味なし。新卒フリーランスがおすすめです

f:id:Wetland:20181209142346j:plain!!??

正直、世の中を混沌に陥れる気かなという感じです。

先人に学ぶ

「人々に影響を与える」のがインフルエンサーの定義とするならば、ドイツの哲学者、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ御大はその頂点のうちの一人でしょう。

没後120年近く経った今もなお、その言葉は中二病患者を生み出し人々に影響を与えています。

 

かの御大の超有名著書「ツァラトゥストラはかく語りき」第一部では、精神の三段の変化についてそれぞれ「駱駝(ラクダ)」→「獅子」→「幼な子」に喩えています。

駱駝

精神にとって多くの重いものがある。畏敬の念をそなえた、たくましく、辛抱づよい精神にとっては、多くの重いものがある。

その精神のたくましさが、重いものを、もっとも重いものをと求めるのである。

駱駝は自己を無にし「汝なすべし」という外からの命令に従っています。背負っている「重いもの」とは様々な役割や期待のことでしょうか。何だか社畜チックですね。

 

余談ですが、御大のこれまた超有名著書「人間的な、あまりに人間的な」ではこのような記述があります。 

あらゆる人間は、いかなる時代におけるのと同じく、現在でも奴隷と自由人に分かれる。

自分の一日の三分の二を自己のために持っていない者は奴隷である。 

…ニーチェ御大が現代に生きていてTwitterとかやっていたらバッキバキに炎上しそうですね。 

獅子

もっとも荒涼たる砂漠のなかで第二の変化がおこる。ここで精神は獅子となる。

精神は自由をわがものにして、おのれの求めた砂漠における支配者になろうとする。 精神はここで、かれを最後まで支配した者を探す。

精神はかれの最後の支配者、かれの神を相手取り、この巨大な竜と勝利を賭けてたたかおうとする。

(中略)この巨大な竜の名は「汝なすべし」である。だが獅子の精神は「われは欲する」と言う。

かくして、駱駝はやがて獅子に変身します。それまで私たちを縛っていた「汝なすべし」と対決するわけです。御大は、新しい価値を創造するための自由は獅子の精神でなければ獲得出来ないと述べています。

幼な子

幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。 

なんだかマジック・ザ・ギャザリングのフレーバーテキストみたいですね。 

新しい創造のためには、無垢な肯定力が必要です。そのような幼な子の精神に達することができれば、人は「超人」になれるというのです。

確かに、ものごとの第一線で活躍されている方々って無垢な印象がありますよね。

いきなり「超人」になろうとしていませんか

「駱駝」「獅子」「幼な子」の三段階は過程であり、単に優劣をもって比較されるようなものではありません。 

したがって、いきなり「幼な子」を目指そう!というのは的外れです。一見、結果的には無駄とも思える「駱駝」も、次なる「獅子」への変貌には必要な段階といえます。

物事が目まぐるしく変わっていく現代。「超人」が発したメッセージを真に受け、いきなり「超人」になろうとする人が多すぎませんか。

 

必要なときに必要な段階を経る。運動や精神もそうなんですが、キャリア設計でもそう言えるのかもしれませんね。

 

今回はここまで。